HOME>ニュース>総主事通信07年度⑪今月のコメント

ニュース

総主事通信07年度⑪今月のコメント

2008.03.05

シェア ツイート

<今月のコメント>

第1に、「国際女性デー」(3月8日)について。

 1977年、国連総会は各国に対し、それぞれの歴史、国民的伝統や習慣に沿うかたちで任意の日を「国際女性デー」と宣言するよう呼びかけました(決議32/142)。女性に対する差別撤廃と、社会開発への完全かつ平等な参加に向けた環境整備に貢献することが各国に期待されています。この国際デーは国連総会が宣言した「国際女性年」(1975年)および「国連女性のための10年」(1976~1985年)に引き続くものです。国連が3月8日を国際女性の日としたのは、国際女性年(1975年)のことでした。(国連広報センターより)

●UNFPA(世界人口基金)から(HPより) <8:94の格差──赤ちゃんの死亡数>
 先進国で生まれた1,000人の赤ちゃんの内、不幸にして1歳を迎える前に亡くなってしまうのは、8人。けれど、後発開発途上国では、生まれた1,000人の赤ちゃんの内、94人までが1歳未満で亡くなっています。
 乳児死亡率に見られる<8:94の格差>。これは、ある国々では1歳になる前に死んでしまう赤ちゃんが私たちの国より12倍近くも多い、ということです。

 ●UNIFEM(国連女性開発基金)から(HPより) <活動理念> 
 ①女性に偏っている貧困を減らすこと
 ②女性に対する暴力を終らせること
 ③女性と少女へのHIV/AIDSの蔓延を食い止め、後退させること
 ④平時の民主的統治の下でも紛争のさなかでも、ジェンダー平等の達成を追求すること

 子どもの命を守ることと、女性・母親の命を支えることは、「両輪」の仕事です。そして最優先されねばなりません。

第2に、報告書「今、初めて語られる歴史―クメール・ルージュ時代の性犯罪・女性に対する暴力」(中川香須美)

 「ずっと忘れたいと思ってきました。今でも、早く忘れたい。大変な時代でした。」-これはある女性の発言です。この一言に全てが集約されるかもしれません。「長い沈黙を破って」今ようやく語り始められる歴史があります。全容のほんの少しばかり、でしょうけれど、、、。女性のみならず子どもや家族も、戦争という憎しみと恐怖の犠牲者でした。人間の尊厳をないがしろにされた多くの人々は、もう既にこの世にいません。

 「民主カンプチア政権時代には、信頼や愛情といった人間的感情が全て否定された。カンボジア社会が長い時間をかけて育んできた伝統的な家族関係が、共産主義革命のスローガンの下で徹底的に破壊された。夫は妻と引き離され、子どもは親から隔離され、それぞれが別々の共同体での生活を強いられた。自由恋愛は一切許されず、夫婦は全て強制結婚によって作り出された。子どもたちは少年兵として訓練され、自分の親が革命に反する思想を抱いていないかスパイするように教育された。個人は、自分や家族のためにではなく、革命達成のために存在しているとのスローガンがうたわれ、個人の自由は不要として一切否定された。」(同報告書より)

 「女性に偏る貧困、女性に偏る暴力」という構造的な社会悪は、歴史上連綿と続いてつくられてきた人道に対する罪です。私達人間が生み出しながらも、無関心のうちに放置してきた悲劇であるとも言えます。諏訪さんが携わるカンボジアの女性シェルター(運営:レナセール「女性と共に歩む会」)での働きは、直接的にはあの戦争の闇に直結するものではないかもしれません。またある限られた人々に寄り添うことしかできないかもしれません。けれど、たとえ「大海の一滴」であっても、絶望の中からかすかな光をその女性達が見出す旅の傍らにそっと寄り添って歩むこと、それはあの有名な詩:「足跡(Footprint)」に示された主イエスの生き方に従うものであると信じています。

第3に、「手当て」ということ。

 私事で恐縮ですが、1月下旬に怪我をしました。不可抗力ではありますが、右足の小指をかかとで強く踏まれたのでした。踏んだ側は「ご免なさい」で終わり、でも踏まれた側はいつまでも激しい痛みが残りました。踏んだ側は「忘れ」、踏まれた側は「いつまでも忘れられない」のです。小指ぐらいと高をくくっていましたが、あにはからんや、全治1ヵ月半ほどと告げられました。足を引きずりながらゆっくり歩くと、風景は違って見えました。皆何かに急き立てられるように先を急いでいる。ちょっとした気遣いや親切や、その逆に一喜一憂。接骨院では、じっくり手を添えてマッサージとテーピングをしてくださいます。心のこもった人間の手がこれほど温かくやさしいものか、と感激をしました。
 「小指ぐらい、と侮ってはいけない。人間はかかとと親指と小指の三つの支点で立っている。そのバランスが崩れると、人間の『軸』がおかしくなり、股関節や腰を痛める」との助言。小さな一点が身体全体を支えている、のでした。
 怪我はバングラデシュの障がい者コミュニティセンター(マイメンシン)への出張前の出来事でした。出張は予定通り、出かけました。マイメンシンで、障がいのある人たちへ、心を尽くして丁寧にリハビリを行う山内さんはじめ現地スタッフ。その姿がまぶしく、心動かされました。怪我は神様の計らいだったのかもしれません。
 「踏んだ側と踏まれた側」の問題、「痛み」ということ、手を尽くすということ、「癒し」ということ、取るに足りないと思えるところの大切さ、「生きる」軸足、ということ。諸々考えさせられた次第です。
 「手当て」-本当のことは、シンプルなのかもしれません。