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10年度総主事通⑫

2011.04.06

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今月のコメント~今月は“震災一色”です~

●“Pray for JAPAN”―震災が繋ぐ世界 
 1.17、9.11・・・。悲劇は、「数字」と共に刻まれています。無機質な数字は、命の尊厳と残酷な現実との両方を物語る雄弁な「言葉」です。今年に入り、心は「2.22」にNZへ、次に「3.11」には東北地方へ飛びました。

 “日本のために祈る/Pray for JAPAN”  http://www.youtube.com/watch?v=5ScrNx6vwaA
 
 これは清水範子・前タンザニアワーカーから「友人の紹介」として送られてきたYoutube画像です。ぜひ、ご覧ください。世界各地の人々が日本の、私たちのために祈ってくれています。

 私がJOCSに移る前、16年前の1.17の時(当時は神戸在住)、米国SFの日系人社会の方々に多大なご支援をいただきました。SFは、1989年にローマ・プリエタ大地震を経験しています。LAでもノースリッジ大地震がありました(1994年1月17日、阪神大震災の1年前の同じ日の出来事でした)。災害復興の「先輩たち」は私たちを仲間として励まし、経験を共有してくれました。経験は教訓に満ちていました。私たちは「被災者(被災地)責任」という言葉を胸に、支援された恩を、次の被災地へ返さねばならないと、その後続く国内外の災害被災地へ応援リレーで繋いでいきました。震災が繋ぐ世界が、震災が育んだ「共生の文化」がそこにあります。原点は「祈り」です。

●「ずっしり重い/励まされる/心に沁みる言葉」、そして「分かち合う心」

○「連れ添い60年『こんなにきれいだったのか』」(朝日 2011.4.1) 
「みごとな桃色で・・・。見たことがない、いい色。こんなにきれいだったのかって」(朝日 同上)

 高田一郎さん(福島県南相馬市)は、福島第1原発の避難区域30キロ圏内へ、津波で行方不明となっていた妻トヨノさんを捜しに入りました。そして60年連れ添ったトヨノさんのご遺体と自宅近くの瓦礫の中で「再会」しました。「泥水で真っ黒だったけど、湧水で顔を洗ってあげると、美しい表情を見せてくれた」(朝日 同上)
 死別と喪失、絶望と深い想い。私たちは「その人」にはなれません。無力です。その言葉はずっしり重いです。

○第83回選抜高校生野球の選手宣誓(
 「私たちは16年前、阪神・淡路大震災の年に生まれました。・・・被災地では、全ての方々が一丸となり、仲間とともに頑張っておられます。人は仲間に支えられることで、大きな困難を乗り越えることができると信じています。私たちに、今、できること。それはこの大会を、精いっぱい元気を出して戦うことです。・・・」

○「・・・涙を燃料に毎日を生きている・・・」(読売 2011.3.17)
 
○ kizuna311.com http://www.youtube.com/watch?v=hvFEffacY5g
 「雨ニモマケズ」(宮沢賢治)、「生きる/守らずにいられない」(谷川俊太郎) by 著名俳優の朗読とメッセージ

 帽子やマスク、防寒具を着てリュックサックを背負って行き交う人々。16年前の震災と重なるデジャブ/既視体験のような情景です。停電の暗闇と静寂では、ろうそく1本が私たちを照らし温めてくれます。50周年感謝礼拝で語られたBr.フランクのメッセージ「シンプルに、感謝しつつ生きることの恵み」を想起する時が与えられました。
 避難所で、2枚配られたパンを「1枚しか要らないので、と1枚返す」お年寄り。その「パン1枚を分ける」子どもたち。その行為が「灯火」です。分かち合うことの美しさは、厳しさにあって凛と際立ちます。私たちは忘れていました。そのことの大切さを。それは途上国の日常でもあります。私たちはそこから、いつも教えられています。

●「51人/13,261人」~「3.11 日本の試練」(Newsweek 2011.3.30)

 上の数字は震災発生から10日後の行方不明者数で、前者は阪神・淡路大震災/後者は東日本大震災です。
 今回の広域かつ甚大な災害の脅威を物語ります。地震・津波・原発事故という「三重苦/複合災害」は、試練というにはあまりにも過酷。ついに米軍は“TOMODACHI(ともだち)作戦”を開始しました。原発クライシスは、海外報道の「外」にいて、しかし「渦中」にいる私たちが情報過疎地の状態に置かれ、蚊帳の外に思えて仕方がないです。風評被害という二次災害も深刻化しつつあります。国自体の瓦解の予兆でしょうか。

 ところで「瓦礫の海」(“山”ではなく“海”)に、7年前の、インド洋大津波の後のスリランカの惨状を思い出します。巨大なTSUNAMIによって洗い流された町、1km近くの内陸部にぽつんと浮かんだ逆さの船。被災した漁師さんたちは、「恐怖」で海に向かえなくなっていました。長年の内戦の後遺症である(波に飲み込まれた)対人地雷が、「もう一つの、見えない恐怖」となって人々を脅かす、という「複合災害」でした。自然災害と内戦の被災(害)者への支援格差や異なる民族間の援助格差もありました。国際緊急援助が競うように展開され、被災地が疲弊し、過剰な支援に自立が損なわれたり、全く手つかずの孤立した被災地が生まれたり、もしました。実に悩ましい問題です。

 私たちは試されています。あまりにも大きな代償を支払いながら、、、。
 私たちは決して一人じゃない。いつかこの苦境を乗り越える時が来る。けれど、「雨ニモマケテ、風ニモマケテ、、、」じゃあ、だめでしょうか。今しばらくは。
 昨年の本通信(2010.4.2)でご紹介した「静かなる勇気」(評論家 村上一郎氏)という言葉をふと思い出しました。悲しみや苦しみをじっと抱き留めながら、静かに、顔を上げて歩み出そうとする人々の勇気のことを想って。
 今は受難節、そして4月24日はイースター(復活祭)。「静かなる復活」を心深く祈っています。