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2012.08.03
釜石訪問レポート(7月27日~28日) JOCS 事務局総主事 大江 浩 JOCSは、カリタス釜石ベースを受け入れ先として、定期的なカウンセラーや看護チームの派遣を通して、被災者支援活動を続けている。私にとっては、昨年11月以来の訪問となるが、このたびの現地訪問レポートをお届けしたい。 1.現地の様子など 箱崎白浜地区での第6回JOCS看護チームの訪問ケア活動(7月26日~31日)に参加して ● 漁港で作業をしている方々(今は、ウニ漁の季節であり、護岸工事の作業をされていた)と色々とお話をする機会があった。 漁港の建物は全壊し、仮設のテントが設置されていた。「働くことが何よりの喜びだ」と口々に仰っていた。 生き甲斐がその人を生かす、しかし立ち直れない人たちも多い現実がある。 ● 作業をしていた方々は60歳以上の方々が多く、何人かの方々は血圧測定を希望されたので、実施した。釜石の避難所には入らず、白浜に居続けた方もおられ、その心情を伺うことができた。「高台移転の話が出ているが、土地の権利や費用など多くの問題があり、まだまだ先のお話だ。震災前の3倍もの高さの防波堤が築かれることになっているが、ハードのみの問題ではない」と、ため息をついておられた。
● 在宅被災者の方、仮設住宅の方を訪問した。孤立集落である同地区の方々は昨年8月からJOCS看護チームが戸別訪問を続けているが、カリタス釜石も月1回お茶っこサロン(すいすい会)を開始している。今後の双方からの関わりがより有効に働くよう期待したい。
白浜地区自治会長(仮設住宅に入居)にお会いして● 避難所時代から地域のとりまとめ役で、JOCS看護チームはいつもお世話になっている方である。昨年の初盆の後の8月20日にお連れ合いを自死で失くされている。先日、1周忌を済まされたと伺った。もうあれから1年近くたってしまった。震災以降の様々な人間関係・人間模様についてもお話を伺うことができた。
● お連れ合いを亡くされた今は、ご高齢のお母様を介護しながら(お父様は津波の犠牲に)、いくつもの役職を担いつつ、忙しくされている。
釜石医師会を訪れて● 小泉医師会長が震災直後、検死に尽くされ、取材にも協力されたルポルタージュ「遺体-震災、津波の果てに」(石井光太著:新潮社)を拝読した。当時の医療関係者、行政職員、消防団員たちの克明な記録が津波による死、検死と遺体安置に従事した人たちの過酷な状況を詳細に伝えている。
日基教団新生釜石教会を訪れて● 同教会は、今年6月に「新生釜石教会だより~震災体験特集号」を発刊した。その状況が目に浮かぶような生々しい記録に牧師、その家族、そして教会員の方々の体験とご苦労を知り、祈らざるを得なかった。 カリタス釜石にて ● カリタス釜石の主要支援事業は、①ベースふぃりあ、②お茶っこサロン(移動ふぃりあ@仮設住宅:計12か所)、③社協ボランティアセンターからの要請に応じた活動、の3つである。現在はそれに加え、パレスチナ子どものキャンペーンから引き継いだ「写真洗浄」や子どもセンターでの子どものあそび活動なども行っている。 2. 印象に残った言葉とエピソード: 86歳の独居男性~白浜地区の仮設住宅で ● 毎回お会いするこの方は、元消防団・分団長で、叙勲も受けられた人望も厚い地域の長老格の方である。震災の後、誰かが見つけてくれた消防団員時代の道具を大切に飾っておられる。かつての遠洋漁業(北は千島列島から南は台湾の手前まで、スケールが大きい)のお話なども、この方の誇りとして伺った。● 「津波で妻を救えなかった。30歳代の将来有望な消防団員が20名以上、命を落とした」と言われた時の表情が忘れられない。次世代を担う有望な人材が津波で奪われたことは地元にとって深刻な問題である。
カリタス釜石ベース~出会いと繋がり ● 首都圏から来ていたカトリック系学校の高校生ボランティアの活躍が印象的だった。そのうちの一人で高3生のリピーターの言葉が印象に残っている。「受験生で、親の反対を押し切って釜石に再び来た。そのこともあり、絶対志望大学に合格しなければならない。何より前回の活動時に出会った子どもと会えたことが嬉しい。必ずまたここに戻ってきたい」。彼らの頼もしい力強い言葉に目頭が熱くなった。
● 若い世代の人たちの豊かな感性、彼らの価値観を変える出会い、体験を通してその生き方を揺さぶる現場の力を痛感した。高校生たちはご高齢の被災者から、孫のように好かれていた。彼らはそれらの方々から3.11の経験のみならず、昔の津波体験、戦時中の艦砲射撃(釜石は壊滅的なダメージを受けた)を聴いていた。「カンポウ」って何?と内心思ったに違いないが、体験当事者の言葉は重く響いたようである。
● 釜石ベースでは、見送る側は「さよならではなく、いってらっしゃい」、離れる側は「行ってきます」と言う。その度に人々の涙が流れる。私も初回の訪問で、「釜石病にかかるよ」と言われた。離れていても常に想い、そして戻りたくなる人の温もりがある。私たちがどこかに置き去りにした繋がり、大切な「何か」がある。
● 「カトリック釜石教会は、3.11以降キリスト者と非キリスト者が集い、支援のために祈り力を合わる場となっている。ここは深く傷ついた人、寄り添いたいという人たちの集いである。それは『原始教会』の姿であり、そこに福音がある」との言葉に、カリタス釜石の存在の意味を考えさせられた。
「キリスト教の人たち」について ● 新生釜石教会の柳谷牧師から、地元では「キリスト教の人たちが一番長く残って支援をしてくれている」と評価されていると伺った。「キリスト教の人たち」とはカリタス釜石であり、日本聖公会釜石支援センターであり、JOCSかもしれない。JOCSが看護師・保健師が継続的にケア活動に関わっていることも大きいとのコメントに励まされた。
● 地元の方から、「最初は、正直言ってキリスト教に対する違和感があった。しかし地道に活動を続けて下さっている姿に次第に信頼するようになった」と伺った。一方、キリスト教を頑なに拒む被災者の方々もおられる。「自分たちを救ったのはキリストではない。自衛隊だ」と。それはごく自然な感情だと思う。そうした方々にどのような言葉を持ち得るか、答えは見いだせない。「キリスト教とは何か」が問われていると痛感する。と同時に、宗教を越えた人と人との繋がりに意味を見出し、思いを強くする今日この頃である。
● 新生釜石教会の玄関に掲げてあった「今こそ祈りの時」という言葉が、心に沁みた。
+α ● 被災地は一様ではない。一線を越えた「向こう側」は壊滅的なダメージを受け、「こちら側」では何事もなかったかのように日常が続いていた人たちがいる。「こちら側」の人たちは、それぞれに被災しなかったことの罪責の念を抱いている。「被災者になれなかった被災者」という言葉に、深い共感を覚えた。
● 震災は、それを契機に元々の潜在的なコミュニティの姿を浮き彫りにする。人と人との関係、家族や地域内の人間関係など、よそ者には見えない課題が、時がたつにつれて複雑化しているように思えた。
● 帰り際に寄ったお土産屋さんで、やり取りから私がJOCSのスタッフであると知ったお店の方から、「避難所では本当にお世話になりました」とお礼の言葉を頂いた。JOCSの避難所での巡回診療は2か月ほどだった。しかし今もJOCSのことを覚えていて下さったことに胸が熱くなった。
3. 釜石を訪れて: ● 3.11から1年と5か月。私自身にとっては、延べ5回目の現地入りである。変わらぬのは、JR新花巻から釜石の直前まで2時間ほど続く長閑な田園風景である。被災地は突如現れる。昨夏は異様な光景と異臭とハエの大発生に悩まされていた時期だった。今回は目に見えるところは空き地が増え、仮設の商店街を含めいくつかお店や宿泊先も開業し始めていた。悲しい風景は、瓦礫の山に草が根を張って伸びていたことである。それだけの時間がたったのだ。過ぎた月日、一方で被災地の止まったままの時間、このまま取り残され忘れられていくのか?流れる時間と現実とのギャップに複雑な想いを抱かざるを得なかった。
● 薄い屋根の仮設住宅に猛暑は厳しい。光熱費がかさむためエアコンをつけずに、じっと閉じこもっている方もおられる。熱中症・運動不足・症状の悪化などの健康問題、ストレス障害などの精神面の問題、人間関係に関わる諸問題など懸念材料が山積みである。被災者の深まる苦悩、希望が持てない辛さ、複雑化する諸問題、そして燃え尽きそうになっている支援者の方々のことを思い、改めて心痛む訪問となった。
● カリタス釜石や地元の方々がJOCSの支援に信頼をおいて下さっていることを有難く思う。何よりも、カウンセラーの白石仁美さん、看護チームの働きの故である。幸いにもカリタス釜石のベースふぃりあやお茶っこサロンでの自然な形の人的協力関係が進んでいる。細くとも息長い支援ができればと思う。JOCSは、これからも毎月白石さんの派遣を継続する。今後の看護チーム派遣は、第7回9月6日~10日、第8回12月6日~11日の予定である。
● JOCSは、旗を振り、自らの存在をアピールするような支援は望んでいない。地元の方々を第一に考え、「できることを・できる限り・できる時まで」という身の丈に合った形で、というスタンスである。「よそ者にはできないことがあるが、よそ者にしかできないこともある」。自らの限界と向き合いつつも、被災された人々に寄り添い、支援者に尽くす人々のケアを視野に入れつつ、活動を続けていきたい。
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