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12年度総主事通信 ⑤<No.65>

2012.09.12

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今月のコメント

●ロンドン・パラリンピックの挑戦者たち~それぞれの物語

 ロンドン・パラリンピック 20競技503種目(前回よりも31種目増加)。多様性に富む障がい者スポーツの祭典に参加した選手は約4,200人。勝敗を超越した一人ひとりの挑戦者の姿に心打たれると共に、それぞれの物語に深く考えさせられます。以下の選手の物語には、占領・原発・戦争が影を落としています。

「政治に翻弄され、行き来の自由も制限される。パレスチナ自治区のガザからやってきたハミス・ザクート選手(46)は、逆境をはね返すように、円盤を投げ続けた。・・・ザクート選手は20年前、出稼ぎ先のエルサレムで建設現場のビルから落下し、下半身の自由を失った。・・・ザクート選手は(イスラエルによる事実上の封鎖状態が続くため)イスラエルを挟んだパレスチナ自治区・ヨルダン川西岸で6月に開かれたパラリンピックの壮行会に、ガザから出られず参加できなかった・・・」(朝日2012.9.8)

「ボートの米国代表オクサナ・マスターズ選手(23)はウクライナで生まれ、その日に孤児院に入れられた。手足が変形していた。チェルノブイリ原発事故の影響とも、家の近くにあった別の原子力発電所から漏れた放射能の影響ともいわれた。三つの孤児院を転々とした。・・・(養母の)ゲイさんは『彼女は、障害のない私にも出来ないことをやって見せてくれた。親ができるのは、子どもに従うことね』とほほえんだ。競泳の豪州代表アーメド・ケリー選手(20)も孤児だった。イラクのバグダッドで両手足が未成熟な状態で生まれた。障害がある弟のエマニュエルさん(18)とともに孤児院の玄関前に捨てられた。・・・(養母の)モイラさんは『いつか他人を助けられる人間になって欲しい』」(朝日2012.9.8)

最後は、日本人選手の、“Never Give Up”の物語です。

「ボッチャ個人予選は2連敗で敗退が決まり、加藤啓太は声を出して泣いた。・・・生後3か月で原因不明の窒息になり、脳は3分の1しか生きていない。知的障害はないが言葉をはっきりと発せず、右手で文字盤を指して意思疎通する。今大会、日本選手団で最も重い身体障害を持つ選手だ。・・・人生をかけてきた競技で負け、悔いが残った。『リオ大会を目指す』。決意はすぐに固まった」(朝日2012.9.6)

●「ガーゼ」(まど・みちお作)~傷だらけのいのちを癒して

 10年前の2002年9月11日、私はペシャワールのアフガン難民キャンプにいました。数日前はアフガニスタンの首都カブールでした。カブール到着直後、30人が死亡・170人が負傷する爆弾テロに遭遇しました。銃弾だらけの破壊しつくされた建物に住みつく人々。物々しい国連治安支援維持軍。打ち捨てられた戦車。地雷が埋まり荒れ果てた土地。旧ソ連との戦争終結(1979年)以来、23年に及ぶ内戦と大干ばつに疲弊しきった国土。難民として国境を超えることすらできない最も弱い立場の「国内避難民」。「戦争(を、ではなく)<しか>知らない」子どもたち。AK47 カラシニコフ銃を誇らしげに持つ山岳の村の青年。産業廃棄物が垂れ流される川で遊ぶ難民の子どもたち、屈託のない笑顔で。私が目で見た戦争の傷跡でした。

 内戦が激化し学校すら破壊される戦場と化したシリアで、山本美香さんが取材中に凶弾に倒れました。
 「・・・(シリアの)死者はすでに25,000人を超えるという。その一人にジャーナリストの山本美香さんもいる。弱い立場の人に目を向けた人だった。葬儀の会場に、全身を包帯で覆われた赤ちゃんの写真が飾られたと聞いて、まど・みちおさんの『ガーゼ』という詩が胸をよぎった。<ガーゼは 傷口によりそい/命(いのち)を まもりぬく/まっ白く あかるい/花びらのような やさしさで/どんなに どす黒く重たい/武器たちの にくしみからも>。山本さんはこの詩をご存じだったろうか・・・」(朝日 2012.9.6)

 たとえ戦争を止める「特効薬」にはなれずとも、傷口に寄り添う「ガーゼ」になれたら、ふとそんな想いが心を過ぎりました。傷だらけの地球を、「平和」という名の心のガーゼで包んでほしい、と切に祈りました。

●ジム・アーウィン宇宙飛行士~ネパールの裸足の青年

 「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」との言葉を残したアポロ11号のアームストロング船長が8月25日に帰天しました。宇宙、そこに神秘があります。創造主の世界に触れ、大きく人生を変えた人もいます。アポロ15号飛行士のジム・アーウィン氏もその一人です。

 「・・・彼は宇宙で、月で、神がすぐそこに隣在していることを実感して(『ふり向けば、すぐそこにいるのではないかと思われるくらい、神は近くにいた』という)回心し、もともと洗礼を受けたクリスチャンではあったが、月から帰ると、もう一度洗礼を受け直し、自分の残りの人生を神に捧げることを誓ったのである」(立花隆著「宇宙からの帰還」中央公論社)。アーウィン氏は、「神との邂逅」によって、後に伝道者になりました。

 私たちは、しかし「共に生きる現場」やふとした出会いにも「神の存在に触れる」ことがあります。畑野研太郎JOCS常務理事の言葉です。「・・・私は、エマオへの道で弟子たちと共に歩み自らを現されたイエス様が、ネパールにおいても岩村先生と共に、そして日本にいる私たちと共に、病気のおばあさんを背負って歩み、自らがおられるところをお示しくださったものと信じている」。岩村昇医師のエピソード、“重病のおばあさんを背負って三日間山を越えて病院まで届けてくれ、しかも謝礼を受け取らず「サンガイ・ジウナコ・ラギ」(みんなで生きるため)といって去って行ったあのネパールの裸足の青年”は、実はイエス様だったのではないか、と。

 貧しくされた人々の中にも、障がいの故に虐げられた人々の中にも、そしてそのような人たちと共に生きようとする人たちの中にも、「神」の眼差しを見ることがあります。私たちは、しばしば神を見失い離れます。でもなお私たちは神に抱きかかえられ、私たちの心の宇宙の中の「弱さ」と共に歩む神がいることを知っています。