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HOME>ニュース>12年度総主事通信 ⑫<No.72>
2013.04.23
今月のコメント
●堀川愛生園(福島)~賀川豊彦~「子どもの権利」
JOCSが、被災者支援の一環として、NPO「福島県の児童養護施設の子どもの健康を考える会」を通してサポートしている施設のうちの1つに、堀川愛生園があります。多くは被虐待児、あるいは発達障がいを抱えている子どもたちで、震災後の仮設住宅内での被虐待による入所児童もいます。彼らは、グループホーム単位の家族的な雰囲気で暮らしています。私は、3月に堀川愛生園を訪問した際に、JOCSとの不思議な繋がりを知りました。
堀川愛生園は、賀川豊彦が、第2次世界大戦の戦災孤児(東京上野周辺)の救済のために、日本基督教団三崎町教会の山北多喜彦牧師(当時)に相談したことがきっかけとなり、山北牧師の子女の疎開先だった福島の棚倉町内の堀川(ほっかわ)に1945年に設立された児童養護施設でした。 「JOCS25年史」(隅谷三喜男著)によれば、第2次世界大戦直後の1946年に、東京都下のキリスト者医療者たちが教団信濃町教会に集い、翌1947年に福島県阿武隈高原の戦災孤児施設や周辺の地域の無医村診療を行ったことが記録されています。この「戦災孤児施設」が、奇しくも堀川愛生園でした。
ここで、この発端となった賀川豊彦のことに少し触れたいと思います。賀川は、神戸市のスラムでの路傍伝道と共に、関東大震災(1923年)での救援事業に大きな働きをしました。また非戦・平和主義に基づき、労働運動、農民運動や生活協同組合にも尽力し、1954年から3年連続でノーベル平和賞候補者として推薦されました。
注目すべきは、賀川が関東大震災の翌1924年に、「子どもの権利」<6項目:子どもの食う権利・遊ぶ権利・寝る権利・叱られる権利・夫婦喧嘩を止めてもらう権利・禁酒を要求する権利>を提唱していたことです。賀川の訴えた「子どもの権利」は、弱い立場に置かれた子どもたちのSOSです。今、虐待や障がいに加えて、放射能という「見えない恐怖」に晒され、健康被害の問題を抱える福島の児童養護施設の子どもたち。そのうちの一つ、堀川愛生園との歴史的な繋がりに不思議な巡り合せを感じています。ちなみに賀川は、JOCSの設立発起人の一人でした。
●“もう全部許す”~水俣病患者 故・杉本栄子さんの言葉(作家 石牟礼道子さん)
「余りに長すぎた日々だった。最高裁が16日判決を言い渡した二つの訴訟で、水俣病かどうかが争われた2人の女性が行政認定を求めてから約40年。2人はもういない・・・(81歳の息子は)母の認定申請から今年で39年。判決後の会見では『長くて疲れたが『お袋やったよ』と仏前に報告したい」(朝日2013.4.17「40年 亡き母よ」)と。
水俣病の第1号患者が発病したのは1953年。60年前のことです。流れた時間は戻りません。当事者の多くは、既に天国です。福島の原発事故は、「過去」となっていた社会問題に再び光を当てました。水俣病やハンセン病もその一つです。病との過酷な闘い、家族の分断、国や行政や企業の頑迷な態度。人間の尊厳と命の問題が浮かび上がりました。ハンセン病は、JOCSも長い関わりの歴史がありますが、別の機会に述べたいと思います。
さて以下は、作家石牟礼道子さん(『苦海浄土』 (講談社) による岩波書店「3.11を心に刻んで」の文章です。
「苦しゅうして苦しゅうして、もう全部許すことにした。チッソも、病人をさげすんだ人々も全部許す。人を恨むことはやめた。この辛い病気は誰にも病ませたくない。全部私たちが荷ってゆく。(杉本栄子さん)
今は亡き、水俣病患者、杉本栄子さんの亡くなる前の遺言である。水俣病の症状のひとつは、キリで、ぼんのくぼをぎりぎり突き刺すような痛みだそうである。手も足もわなわな震え、歩けない。茶碗や箸も握れない。全然ものも言えない人もいる。症状の軽いときをみはからって来て、栄子さんは右(上)のようなことをおっしゃった。菩薩さまになられたと私は思った。よくもあのようにすさまじい症状をかかえながら、心無い言葉を吐きつづけた人々を許すという心境になられたものである。人間の罪を許すかわりにその罪のひとつひとつを自分が背負ってあの世に行くとは神か仏様の言葉であろう。女漁師であり、学校教育はほとんど受けず、哲学書の一行も読まなかった人である。・・・『水俣病は私が引き受けた』とおっしゃった言葉を村の人たちも私も忘れない。」(2011年11月11日)
石牟礼さんは、唯一無比の生涯を生きた杉本さんの言葉に、「許す」ということの意味と奥深さに触れています。しかし、これは極めて難しいことです。岩波書店「3.11を心に刻んで」のメッセージがずっしり重く響きます。
●アウン・サン・スー・チーさん~“希望を失わないでほしい”
私は、ミャンマー(ビルマ)に数回訪れたことがあります。最初は10年前の2003年、軍事政権下で、文字通り鎖国状態の国でした。この10年の激変ぶりをずっとwatchしています。先日、非暴力・民主化運動の指導者アウン・サン・スーチーさん(ノーベル平和賞受賞:1991)が来日しました。スーチーさんのTVインタビューでの説得力に満ちた明解な受け答え(日本の政治家には望めない)がとても印象的でした。スーチーさんは、「15年間の軟禁生活は孤独ではなかったか?」との質問を受けて、以下のインドの現代詩人ヴィクラム・セスの詩(↓)を引いて
“今夜 眠る すべて” by ヴィクラム・セス
孤独でも 自分を気遣ってくれる人はいる。一瞬かもしれないし 一生かもしれない。
「私は孤独ではありませんでした。本を読み、音楽を聴き、そして様々な人々と(心の中で)繋がっていました。」と答えました。15年と一口に言っても、15年x365日x24時間=131,400時間。気が遠くなります。英国人の夫との再会は叶わず死別(1999)しました。何より、国内及び世界中の注目と期待を集めながら、「アウン・サン・スー・チー」を生き続ける重責は計り知れません。話の中で何度も「若者へ」を強調し、画面を真っ直ぐに見て、最後には、「現在は、未来を変えられる。過去が、現在を変えてきたように。決して希望を失わないでほしい」と訴えました。
スーチーさんは、3.11の後、メッセージを日本へ寄せました。「もし言葉によって日本の皆さんを十分に慰めることができるなら、私は毎日日本の皆さんに手紙を書くでしょう。地震と津波のことを聞いたとき、私はすぐにラングーンにいる日本の大使に手紙を送り、あのようなすさまじい震災に対処しようと闘う日本の皆さんのことを私たちがどれほど心配しているか伝えようとしました・・・」(東京新聞 2011.3.24)。日本に向けた眼差しが伝わります。
さて、「女性というより少女」ですが、もう一人世界の注目を集める人がいます。あの「パキスタン銃撃の少女」マララさん・ユスフザイさん(15歳)です。彼女は、「教育を受ける機会を、40人から4,000万人に広げましょう」と女性教育のための「マララ基金」の活動を始めました。希望の小さな灯火は、受け継がれていきます。未来に向けて。
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