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13年度総主事通信 ㈬<No.76>

2013.08.22

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今月のコメント

●「被爆治療を通して、隔ての壁を壊す」(教団出版局「こころの友」 2008.10)

 7月下旬、「国際平和のための世界経済人会議@広島」への出席の折、広島流川教会(※)や河村内科消化器クリニックを訪れる機会がありました。同クリニックは長年、JOCSの使用済み切手運動を支えて下さっています。河村クリニックはまさに爆心地、原爆ドームのすぐ近くにあります。同クリニック理事長の河村譲先生の父上である故・虎太郎先生は、1972〜81年の10年間、JOCSの理事を務められた方です。

 「(河村譲医師)自身が会長をしている在韓被爆者渡日広島委員会が昨年(2007年)谷本清平和賞(※)を受けた。『私はただ引き継いだだけですから』と謙虚な言葉は、理由がないわけではない。渡日治療は父・河村虎太郎(故人)が1968年以来、心血を注いできた活動だからだ。・・・きっかけは同年の核禁会議(核兵器禁止平和建設国民会議)の席上、『韓国にも被爆者がいる』との訴えだった。それまで国内しか見ていなかった被爆者問題の関係者はショックを受けた。戦後23年たっても何の援助も受けられずに苦しんでいる人たちがいる。この訴えを受けてさっそく訪韓医師団が組織され、それに父も加わった。その遺志を引き継ぎ、活動のバトンを受けての受賞である」(「こころの友」2008年10月号より)

 ※広島流川教会(1887年)⇒被爆で黒焦げとなった前会堂の十字架とひびの入った鐘を礼拝堂に架設
 ※谷本清(故人)⇒元広島流川教会牧師・元広島平和文化センター理事長

 虎太郎先生とJOCSとの関わりは、岩村昇医師を支える会広島支部長の時に遡ります。岩村昇元ワーカー(宇和島出身:1962−80)は、広島での被爆を機に医師を志し、ネパールでの医療奉仕と生涯原爆症を生きた方でした。親子二代で海を隔てた被爆の問題と向き合い、日韓の架け橋として被爆治療を続けておられる河村先生の働きは、和解と平和を目指す“隔ての壁を壊す”もの。広島での貴重な発見でした。

●エベレスト山麓の村・43年目の奇跡+ワーカーの働き〜鳥羽季義先生(カリン語新旧約聖書翻訳者)

 JOCSのネパールでの活動で、大変お世話になっている鳥羽先生から先日、お便りを頂きました。そのお便りの前に、ワーカーリトリート会議@ネパール2009での鳥羽先生のお話をご紹介します。
「・・・奉仕の実践については、医療奉仕者から沢山のことを学びました。個人的には伊藤(邦幸)先生の本『海外医療協力論』を読みました。草の根の人から学ぶことが大切です。1970年にネパールに来た時に(エベレスト山麓の)カリンという村で最初の5年間生活しました。そこには何もなかったですが、なければないで何でもできるのです。電気も水道もありません。・・・(カリン村には)医療施設がないので色々と薬を持参していました。まさに“中国の裸の医者”でした。それでも限界がありましたので、伊藤先生に相談してみたら、実際に先生が3日間歩いてきてくださいました。当時は沢山の村人が(受診に)来ました。

 ・・・ある日ヨチヨチ歩きの息子が崖から落ちそうになりました。村人たちが『神様が守ってくれる』と発言したのです。そこで彼から『神様』という言葉があることを知ったのです。学ぶということはそこに行かないと分からないことを発見しました」(ワーカー会議@ネパール報告書) ※カリン語には文字がありません。

 「私たちが(43年間)働いたカリン村に、小さな診療所を作りました。現地の姉妹が働いてくれます。昨年、日本から医師を連れて行き見て頂き、色々助言を頂いています。昔、JOCSの伊藤(邦幸)先生が2度もそこにきてくださり、村の人が感謝しています。それは後に政府の保健所となり、今も働きが続いています。家内(イングリット夫人)が始めた医療活動が実を結んだようです。その地区には教会が11箇所に建ち、礼拝と奉仕をしています。外の人は、『あそこはクリスチャン村』だというようになりました。地図にも教会のしるし(標)がのるようになり驚いています。43年間、いくら奉仕をしても何も起こらなかったところです。奇跡です」(鳥羽先生のネパール便り、2013.8.7)。

 共に生きる草の根の現場での物語です。“奇跡”は、カリン村の村人、鳥羽先生夫妻の献身と奉仕、触媒となった伊藤医師による化学反応でしょうか。

●丸山真男 “原爆への悔悟”/「その脅威がなくなる世界は、まだ見えない」

 戦後を代表する政治学者丸山真男氏(東大名誉教授)の、被爆体験を語ったテープが見つかりました。

 「・・・原爆の意味をもっと考えなかったことは懺悔です。日本自身がどうなるかわからないという事態の方に注意を奪われた。司令部前の広場に横たわった何百という人の悲惨なうなり声が、今でも耳に聞こえる。にもかかわらず、念頭にないのか、意識の下に無理に追い落とそうとしたのか、あれだけ戦争については論じたが、原爆を論じなかった。僕は、至近距離からの傍観者にすぎない・・・」(朝日 2013.8.1)

 「『原子爆弾が私の中にいる』。そう言い残して亡くなった被爆者がいた。原爆投下から68年。今、『第2の白血病』が増えている。72歳の女性は広島の爆心地から2.5キロ地点で被爆した。今まで病気はない。だが、今年、白血球に異常が見つかった。・・・時限爆弾のようだ。終わりのない地獄。その脅威がなくなる世界は、まだ見えない」(朝日 2013.8.6)。

 広島・長崎と福島は同次元では語れません。「被爆」と「被曝」は異なる。しかし、命と未来への脅威において繋がります。福島では、「高濃度汚染水が海に流出した可能性があり、ストロンチウム90とセシウム137で最大計30兆ベクレルに達する」(時事2013.8.21)。その脅威がなくなる世界は、まだ見えません。