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釜石訪問レポート(2013年12月~2014年3月)    

2014.04.09

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≪12月≫
被災された方々は、現在、仮設住宅3158戸に、釜石の人口の16%の5700人の方々が三度目の冬を過ごされています。
復興住宅については建設予定数23カ所の内、建設済みが1ヶ所、建設中が3ヶ所と遅々として進んでいない状況で、2020年の東京オリンピックの誘致で建設資材が東北に来ないのではないかという不安の中で、厳しい冬を過ごされています。

絶句するような震災の状況を経て、今もこれからも、なかなか希望は見えません。
それでも、逞しく「今日」を生きようと、頑張っておられます。

 ≪1月≫
カリタス釜石の「ふぃりあ」によくいらしていた将棋好きのMさんが突然亡くなられ、皆でお通夜に行きました。
その方は、震災前は、年賀状が2通くらいしか来なかったそうですが、震災後、ボランティアにいらした方たちと友だちになり、全国の色々なところに出かけて行かれるようになり、
よくお手紙を書かれる方で、頂いたお返事を宝物のようにいつも袋に入れて持ち歩いておられました。

俳優の荻野目洋子が好きで、将棋が好きで子どものように純粋だったその方の突然の訃報に、ひとりひとりが大切なものを失ってしまった悲嘆にくれました。
彼は震災後洗礼を受けられ、教会に繋がって人生が変わったと何度も仰って、喜んでおられました。厳しい冬の中で咲く花があるように、厳しい状況の中で美しい花を見せて頂くことがあります。

≪3月≫
「釜石の悲劇」と言われる鵜住居防災センターは、昨年10月に取り壊されました。
避難指定場所ではなかったにも関わらず、ここで避難訓練が行われていたために、3・11の震災の時に248人がここに避難し200人以上の方が亡くなられたところです。
それを想うだけで絶句します。今、唯一残されている震災の時のままの「大槌町役場」に「その日」行きました。時計は、その日のまま止まっていました。
車で移動中に、子どもを失くした若いお母さんの泣き叫ぶ姿が脳裏に浮かびました。

大槌町役場跡

胸のあたりに迫って来て、苦しいほどでした。それを神父様に伝えると、「それはあちらに行ききれない霊が誰かに解って欲しいと思っているので祈ってあげて。」と言われました。私は、その人のために、
自分の胸に手を当てて、「ずっと一緒にいていいよ。ずっと一緒にいていいよ。」とマリアさまとわたしの間にその方をいれて、手をつなぎました。
正式なお祈りは判らないけれど、その苦しんでいる若いお母さんの魂の傍にいて、たったひとつの霊魂でも救いたいとただ切に祈りました。

3年目の3・11の追悼ミサとテゼの祈りが捧げられました。歳月を経て癒されていくわけではなく、より重く現実がのしかかり、それをただ担って生きていかねばならない苦悩があります。
そのただ中で、ただわたしたちに出来る精一杯の心からの祈りを、皆が心を合わせて力の限り神様に届くように歌いました。

追悼ミサ

毎月訪れて、ギターを弾いて共に歌ったり、おしゃべりをしたり、卓球をしたり、カウンセリングをしたり・・・三年近く共に歩ませて頂いて出会った人々、
そして「釜石」は、わたしにとって本当に「よそ」ではなく「身内」のような場所になりました。

長期休みには、学生ボランティアが急増するけれど、普段は数名に減ってしまったボランティアに胸が痛みます。
本当に被災された地に足を運び、傷ついたサマリア人やイエス様を乗せたロバのように、黙って必要なことを・・・自分が出来ることをひとつでも、して欲しいと祈っています。
JOCSのお陰で、わたしは毎月訪問出来ますことを感謝致します。

JOCS派遣カウンセラー  白石仁美