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2014年度事務局長通信①/No.97

2014.06.20

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今月のコメント

●“忘却との闘争”~「ハンセン病を正しく理解する週間」(6月22日~)

 「『病棄(やみす)ての烙印おされて/親からもらった 名前を無くした/お七夜(しちや)に慣れない筆で/したためられた 命の証/奪ったのはだれ』。これはハンセン病の国家賠償裁判で原告や支援者がうたった歌だ。詩をつくった谺(こだま)雄二さんは、(5月)11日に82歳で亡くなった」(朝日 2014.5.19)。

 詩人である谺さんは、自らを「鬼」と呼び、人間の尊厳回復を求めて闘い続けました。名前は本名ではなく、“谺(こだま)”は同じ病で亡くなった兄の恋人の姓、“雄”は兄の名、そして“二”は兄と恋人「二人」に由来し、贖罪の気持ちを抱きつつ「三人の生」を生きたのでした。私は、かつて直接お話を聴く機会がありましたが、魂の底から訴えるような、谺さんの言葉の一つひとつの重さが忘れられません。

 さて、JOCS理事の畑野研太郎医師(国立療養所邑久光明園名誉園長)の近著、「分からないけど、理由(わけ)がある」(聖公会出版)から少しご紹介します。畑野医師はJOCSバングラデシュワーカーとしてハンセン病治療に10年間従事された後、同園での19年4か月の働きを終え、今春退任されました。
 邑久光明園(岡山)の前身は、大阪の外島保養園(1909年創立、現在の西淀川区中島)です。海抜0m地帯にあった外島保養園は、1934年の第1次室戸台風がもたらした高潮と津波の襲来によって倒壊流出し、後の1938年、岡山県邑久の地に移り、光明園として再スタートしました。

 「・・・すぐに開けられなかった堤防への門。・・・逃げ場を失って不自由な体で建物の梁へ天井へと逃げる人。流される人たち。それはまさに『隔離という体制』が生み出した地獄絵のような状態であったと思います。597名の入所者と73名の職員、そして職員家族は、高潮の中に投げ出されたのです。その結果、入所者173名、職員とその家族14名の尊い犠牲を出したのでした。」(「分からないけど、理由がある」より)

 邑久光明園の入所者数は1,171名(1943年)から、今は146名に減少し、平均年齢は 84.2歳です。8年前、園内の教会、光明園家族教会(1912年創立)の礼拝でお会いした元患者の方々の穏やかな笑顔、幾多の涙が流されたであろう「望郷の丘」、丘から見える瀬戸内の島々の景色が忘れられません。“忘却との闘争”、それは谺さんの生き様でした。谺さんの「たたき込む」ような詩が、心の中で“こだま”します。

●「神様のホテル」(ビクトリア・スウィート著、毎日新聞社)~“救貧院から問い直す医療の意味”

 「なんと心洗われるノンフィクションなのだろうか。・・・著者のビクトリア・スウィートは、アメリカのサンフランシスコにある『ラグナ・ホンダ病院』の元医師である。1867年に救貧院として開設された同病院には、ホームレスや貧困のため病院に行けない人々、治療を投げ出された患者たちが集う。社会的弱者の最後の砦のようなケア施設を、人は『神様のホテル』と呼ぶ。
 同病院に20年以上にわたって勤務した著者は、その中で遭遇した患者たち、個性的な医師たちとの交流を愛おしむように語っていく。まるで心に折り重なった大切な思い出を、一枚、一枚と丁寧にめくりあげていくように。その一つひとつのエピソードが胸に響くのは、専門分化と効率化の荒波の中で医療機関が変貌を遂げていった期間と重なるからだろう。
 ・・・医療が<技から専門職へ、そして商品へと変貌>していく流れは、同病院にも否応なくやってきた。・・・同病院は最後の砦であったが故に、現代医療の功罪が剥き出しの形で立ち現れる場所となっていくのだ。」(日経新聞2014.2.16 書評:稲泉 連)。

 本書は途上国ではなく、先進国の都会の「貧困」と向き合った医師の記録として、“医療とは何か”を問うています。捨てられる命と救われる命・・・それは世界各地にある現実ですが、「小さくされた命」に尽くす人がいる限り、世界には微かな救いがあります。貧しい村には「神様のホテル」はないかもしれませんが、「神様の宿」はあります。病院であれ、福祉施設であれ。神様の眼差しは、仕える人々に宿っています。

●ドキュメント映画「世界の果ての通学路」~“僕らの希望をつなぐ旅”

 ケニア:15㎞ 2時間~象を避けながら、サバンナを駆け抜ける。/アルゼンチン:18㎞ 1時間半~パタゴニア平原を馬に乗って通学。/モロッコ:22㎞4時間~少女たちはアトラス山脈を越えていく。/インド:4㎞1時間15分~幼い弟たちに車椅子を押され、道なき道を行く。
 ~“世界には、学校に行くために想像を絶する道のりを、毎日通っている子どもたちがいる-” (映画案内より)

 これは、映画「世界の果ての通学路」に登場する4つの国の子どもたちの物語です。
 「フランスのドキュメンタリー映画『世界の果ての通学路』が全国で順次公開されつつある。過酷な道のりをものともせずに学舎(まなびや)をめざす少年少女らの記録である。」(朝日 2014.4.21)。

 作り話ではありません。見事な記録映像が描くハラハラドキドキの「通学」という名の冒険と旅、兄弟や友達の支え合い、「学び」が夢と希望と未来に繋がるという事実に、魂が揺さぶられ、教えられました。

 「インド南部の漁村に暮らす13歳の少年サミュエルは足が不自由で歩けない。毎日、おんぼろの車椅子に乗り、2人の弟が学校まで押していく。・・・近道のつもりで川に入って動けなくなったり、路上でタイヤが外れたり。トラブルに腹を立てて口げんかにもなるのだが、すぐに屈託のない笑顔が戻る。大人の助けも借りながらなんとかたどりつけば、今度は級友が手を差しのべる。・・・サミュエルは医師になりたい。夢を語る表情は笑顔から一変し、精悍で真剣な若者の面構えだ」(朝日 2014.4.21)

 毎早朝、“通学途中で猛獣に襲われぬように”と兄妹のために父親が祈りを捧げ、登校後に先生が生徒の無事を祈る。子どもたちの生きる力と家族の日々の物語が祈りに満ち、深く教えられた映画でした。