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2006.12.21
カンボジア出張レポート番外編―「2回目のカンボジア」
駆け足ではあるが、2回目となる滞在で特に印象に残ったことを3点のみ書き留めておきたい。
第1に、日本のNGOの方々に感謝する夕食会(12月9日)で印象に残った話 JHP学校を作る会・馬さん(JVC13年、学校を作る会5年計カンボジア暦18年)曰く、 1991年以前のカンボジアと以後の同国では「別の国」。1985年にカンボジアに来たときは、欧米を中心とした国連・国際機関がほとんどで、NGOの日本ではJVC以外はいなかった。共産主義国であることから、国外への通信も「ロシア経由」だった。インドシナ難民が大量発生したことを契機として日本のNGOの活動が盛んになっていったが、「難民支援」が中心で、(難民の)帰還先の「本国」のことは視野にはいなかった。JVCはそこに注目し、支援した。 JHPは年間25棟の学校を建てている。2週間に1棟の学校が建っている計算。「箱物」としての学校と生徒だけいても「学校」は成り立たない。重要なのは「教員」(指導者)。しかしその教員が確保できない困難に直面している。児童労働の問題、人身売買の問題も、「教育」即ち子どもが学校にいける社会になっていない(法律や制度があっても実態は裏腹)から起こる現象。とにかく子どもの教育は、すべての社会の最重要課題である。
第2に、出会った2名のカンボジア人の職歴(人生)
<Aさんの職歴> 84-93年:タイ国境の難民キャンプSite B にてCRSの運営する病院で助産婦として活動 (欧米の厳しい訓練を受ける) CRS=Catholic Relief Service 1993年:難民キャンプから帰還開始 1994年:UNTACのレストランで働く 1995年:ICMC(International Catholic Migration Commission)で働く 1998年:ZOA(オランダのNGO・South of Asia)で働く 00-02年:CORD(英国NGO・Christian Organization Relief & Development)で働く 02-06年:日本のNGO
<Bさんの職歴> 1983年:小学校の教員 85-90年:政府の報道機関で働く 90-94年:ICRC(赤十字国際委員会)で働く(離散家族の再結合担当) 96-00年:TOPS(Taiwan Overseas Peace Service)で働く 00-06年:日本のNGO
2人の人生は運命に翻弄され、生き残った証である。先進諸国の、いわゆる「転職」とは次元の異なる現実。このような数奇な運命は、カンボジアでは「ごく普通」なのかもしれない。人口約1,400万人のうち約1/3相当の300万人もの虐殺が行われ、多くの難民が命に危機に直面し、あらゆる破壊と恐怖に慄いた時代。今も対人地雷と不発弾に苦しみ、貧困とHIV/AIDSの問題も深刻なカンボジア。「戦争を知らない」18歳人口が全人口の約半分を占め、記憶を封印したい年長世代とのギャップは大きいという。かの国の平和の行方をこれからもウォッチし続けたい。
第3に、地方の貧困も深刻だが都市の貧困はもっと悲惨(出張レポートの中でSVAの手束さんとの話の箇所にも記載)。スラムコミュニティでの子どもや女性の命が軽んじられている現実。その地域での保健医療のニーズは高い。それはカンボジアだけではなくすべての開発途上国にも共通する。直接的なカンボジアでの活動にピリオドを打つJOCSだが、「人間の安全保障」と「開発」という視点から、私たちが問われていることをしっかりと受け止めたい。
JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)総主事 大江 浩
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