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HOME>ニュース>総主事通信07年度⑤今月のコメント
2007.09.04
5.今月のコメント
●ヒロシマにて 8月に広島へ行きました。ヒロシマを訪れるたびに聴く被爆証言は心に重く響き、その重さは増す一方です。けれど今、語り部の方は全員でも20~30人になってしまいました様々な差別偏見もあり、地獄絵のような被爆体験を語らぬまま亡くなられた方々も多くおられます。中には火葬場で焼かれた後骨粗しょう症状態となったその遺骨から、被爆されていたことが判明、亡くなられた後初めて遺族が知ったという例もあると伺いました。ヒバクシャは日本人だけではありません。韓国・朝鮮人の方々もいらっしゃいます。米軍の捕虜も7-8名いた、とのこと。母国の原子爆弾で命を落とした米軍捕虜の遺族はどのようなお気持ちなのでしょうか。 けれど、私たちはもうひとつのことを忘れてはなりません。ヒロシマは悲惨な体験をしましたが、日本有数の軍都でもあった、という事実です。広島市内の真ん中には「鉄砲町」という町名もまだあります。被害と共に(日本の)加害も見逃すことはできません。どのような理由であれ愚かな戦争を二度と繰り返すまい、と思います。 8月6日の平和記念式典では子ども代表の言葉に胸打たれました。「私たちはあの日苦しんでいた人たちを助けることはできませんが、未来の人たちを助けることはできるのです。私たちは、ヒロシマを『遠い昔の話』にはしません」。VIPの方々の儀礼的な祝辞は心に響きませんでしたが。
●ある被爆者の方との出会いー人間魚雷「回天」 数年前に、Y.Sさんという広島女学院OG(東京在住)の被爆者の方と出会いました。Y.Sさんは、8月6日当日、学校で被爆され奇跡的に生き残った方です。Y.Sさんは女学校時代に軍事工場に動員(呉の海軍工廠水雷部・縦舵機の係へ配属)され、人間魚雷「回天」の部品製作に携わったのでした。Y.Sさんのご実家は呉にあり、江田島の海軍兵学校卒業後、実戦配属までの兵士達の下宿宿となっていました。Y.Sさんは16歳の時に「人間魚雷『回天』」の搭乗員である勝山淳海軍中尉と出会います。勝山中尉は1945年7月24日に戦死。戦争末期には、多くの若い兵士達がわが身を「弾丸」に変えて特攻し、そのかけがえのない命が散りました。 Y.Sさんは書き記します。「正確に。正確にと忠実に(軍事工場で)作業をこなし、成功を祈り続けたことは、すなわち(人間魚雷「回天」の搭乗員の)死を祈り続けたことだと後で気がついたのでした。」(「人間魚雷『回天』一特攻隊員の肖像―伝わりくる思い出、回想はわびしく」高文研より) 今語られる歴史、今も語られぬ歴史があります。尊い命が無惨にも奪われ、生き残った者もまた生きている限り罪責感(Survivors’ Guilty)に苛まれ続ける一生。私たちはそうした方々の「生」への責任を負っています。
●スティーブ・リーパーさん&ロニーアレキサンダーさん 今年、(財)広島平和文化センター理事長に外国人として初めてスティーブ・リーパーさんが就任しました。スティーブさんは、2004年に世界各地の紛争地域で非暴力に取り組むYMCAのユースメンバーとピースキャラバンを組み、全国行脚しました。平和への取り組みに関わるその情熱・発想力・行動力・ネットワーク力は目を見張るものがあります。「思い」は国境を越えて。地球が小さく見えます。ちなみにスティーブさんのお父様は、洞爺丸海難事故(1954年)で天に召されたディーン・リーパー氏(米国から日本に派遣されていた学生YMCA協力主事)です。その遺志が平和へと駆り立てるのでしょうか。 もう一人ロニー・アレキサンダーさん(神戸大学大学院国際協力研究科教授)を紹介したいと思います。ロニーさんは、国際関係学・平和学の専門家として、身近なところから平和をつくりだす「ポーポキのピースプロジェクト」を広げるため、各地を奔走しています(DVD「ポーポキのピースブック」岩波書店や本も出されています)。 「平和」という言葉は、100人100通りの捉え方があります。ロニーさんは、平和って何色?どんな音?どんな味?どのような感触?匂いは?と私たちに問いかけます(ポーポキのピースプロジェクト:http://popoki.cruisejapan.com/より)。その多様性を、それぞれの日常・身の回りから考えてみたいと思います。
「Peaceは、Piece(一つのかけら・一人)から」。一人ひとりは、ささやかな存在であっても「何か」できる存在でありたいと思います。明日ではなく、今日から、そして身近なところから。「誰か」ではなく、「私」から。
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