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10年度総主事通信④

2010.08.06

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今月のコメント

●「一本の鉛筆」 by 美空ひばり

 「一本の鉛筆」は、あの美空ひばりさんが第1回広島平和音楽祭(1974年)で歌った静かなる反戦歌です。以下は主な歌詞です。名曲「さとうきび畑」ほど知られていませんが、平和の大切さが染みる歌です。

“ 一本の鉛筆があれば、 私は あなたへの愛を書く。
  一本の鉛筆があれば、 戦争はいやだと 私は書く。
  一枚のざら紙があれば、 私は子どもが欲しいと書く。
  一枚のざら紙があれば、 あなたを返してと 私は書く。
  一本の鉛筆があれば、 8月6日の朝と書く。
  一本の鉛筆があれば、 人間のいのちと 私は書く。“

 ひばりさんは、生まれ育った横浜市磯子区で、空襲を体験しています。当時、7歳でした。
 力を声高に叫ぶ「勇ましい」人々には、「人間のいのち」という言葉は弱弱しい??でも、これほど強い言葉はありません。
 被爆者の平均年齢は75歳を越えました。65年たってようやく「沈黙を破った」人たちがいます。身内にも黙したまま帰天された方々も、、。やはり「人間のいのち」を思わずにはいられません。

●「ゲルニカ」 byパブロ・ピカソ

 「槍の刺さった馬は暴れ、泣いている女の人の手には死んだ赤ちゃん、折れたナイフを持って倒れている人は死んでいるのだろうね。この絵はね、スペインのゲルニカという町でおきた戦争の絵なんだよ。その時、ものすごくたくさんの人が殺されたんだ。・・・その話を聞いたピカソという絵描きさんが激しく怒ったんだ。自分が生れた国だったからね。」(日経:2009.2.19「こどもとみるアート」)

 ゲルニカが描かれたのは、1937年でした。ゲルニカはスペインのバスク地方にあり、今も争いが絶えませんが、当時フランコ独裁政権時代、援軍ナチスによるゲルニカ攻撃が始まりました。ピカソは、爆撃の恐怖を記憶するために描きました。1937年というと日中戦争。それは翌38年の、JOCSのルーツとされる中国難民救済施療団の医療活動へキリスト者の医学生たちを駆り立てた戦争の始まりでした。
 ゲルニカ攻撃は8月15日、日本軍の南京空爆も8月15日、日本の敗戦も8月15日(ロシアとの戦争は9月2日に終わりましたが)。語られぬ戦争は、今だ「封印された記憶・知りえぬ歴史」として生き続けています。
 ゲルニカのタペストリーは、NYの国連本部・安保理事会議場前に展示されています。平和の象徴として。けれど、私たちはいまだに「戦争の世紀」の真っ只中にあります。

●韓国から見た日本の8月~日韓併合100周年

 この夏、2人の子どもたちと共に家族で韓国を訪れました。中でも2か所は忘れられません。
 その一つ、西大門刑務所歴史館は、日本の占領時代、韓国の独立運動家の弾圧の拠点となった刑務所の一つです。多くの人々が拷問を受け獄死しました。当時30か所あった刑務所は屈辱の象徴であり、今はただ一つが残るのみ。ちなみに西大門刑務所は、軍政時代は政治犯が投獄され、あの故金大中氏も最初収容された場所です。あちこちから悲痛な叫びが聞こえそうでした。日本語の通訳ガイドの方は、これは「日本を憎むためのものではない。私たちの過去を示し、未来に語り継ぐ歴史的な財産です」とおっしゃいました。
 次の戦争記念館は有史以来、人間は絶え間なく殺戮の歴史を繰り返してきたことを証しています。日本は65年前の夏、戦争に終止符を打ちました。しかし隣国はその後朝鮮戦争で南北が分断され、そしてベトナム戦争へ参戦。25年に及ぶ軍事独裁政権下にあった韓国。悲しくも朝鮮半島は、今も臨戦態勢です。

 ソウル市内で道に迷っていると、ある老紳士に穏やかな日本語で話しかけられ、目的地に案内して下さいました。その老紳士は81歳。「80歳以上の韓国人は皆日本語が話せますよ」と。また「大東亜戦争の後、1945年9月に家族揃って大阪から韓国へ引き上げました。あと数カ月、戦争の終結が遅ければ、私はカミカゼ特攻隊員として、鹿児島から飛び立って、戦死したはずです」と話されました。重い言葉でした。
 平和を誓う暑い8月は、日本からではなく韓国から見た時に、「違う歴史」として深く突き刺さりました。