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11年度総主事通信 ⑤

2011.09.15

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今月のコメント

●「私はお墓にひなんします」/「長生きしたいです」

 6月下旬、新聞各紙でも報道されましたが、南相馬市の緊急時避難準備区域に住む93歳の女性が自宅で自らの命を絶ちました。以下は、その遺書の一部です。

 「・・・原発事故で近くの人たちが避難命令で3月18日家の家族も群馬の方へ連れてゆかれました。私は・・・一人で1か月泣いた。・・・また避難するようになったら老人は足手まといになるから・・・こうするより仕方がありません。さようなら。私はお墓にひなんします。ごめんなさい」

 93年間の人生最後の言葉が「お墓に避難します。御免なさい」でした。一体全体、命って、生きる意味って、何でしょう?この言葉の哀切と痛烈なメッセージに、私たちは語る言葉を失っています。

 もう一つ、福島の子どもたちの声です。
 「何故、私だけ転校しなければならないのか」「ふつうの子供を産みたいです」「長生きしたいです」「放射線がなくなって、外で犬をかいたいです・・・」(AERA 2011.9.5)

 8月17日、衆議院第1議員会館での集いで、中学2年生の女子が自ら書いた手紙を読み上げたとき、「目前に並んだ政府担当者はうつむいてノートにペンを走らせ、メモを取るだけだった」と、そして小学5年生の女児は「政府は(質問した内容と)全然違う答えを返してきたので、ちゃんと答えてほしいです」と語っています。これも大人全体への痛烈なメッセージです。

●9.11から10年~“戦争は続く。私たち自身の心の中で。”(Newsweek 2011. 9.14)

 「戦慄と恐怖」に包まれた10年前のあの日。9.11によって「共生」は幻想となり、世界は憎しみと暴力に支配されました。9.11直後からナショナリズムの炎は燃え上がり、イスラム社会の人々への「Hate Crime」(憎悪犯罪)が世界中に飛び火しました。崩壊したWTCの幻影が今も私たちを脅かし続けています。

 「私たちを打ち負かしたのは、ビンラディンとその手下ではない。彼らもまた敗者だ。私たちは自分たちの恐怖に負けた。・・・・私たちの文明が生き延び、存続してきたのは、過ちを犯すたびにそれを認め、その多くを正してきたからだ。だが、恐怖はただの誤りよりも手ごわい。恐怖を克服できるのは希望だけだ。そして希望は、与えられるものではなくつかみ取るものだ。私たちが再び希望の灯をともすまで、戦争は続く。私たち自身の心の中で。」(アンドルー・サリバン/Newsweek 2011.9.14)

 「勝者のいない、終わりの見えない」戦争に巨額の戦費が投じられ、膨大な人々を悪夢で苦しめています。人々は自分の中の見えない恐怖と不信と闘い、出口のない「内なる戦争」の只中にいます。今も。

●「世界がもし100人の村だったら」・・・/「最後だとわかっていたら」・・・

 「・・・絵本『世界がもし100人の村だったら』へと生まれ変わったネットロア(ネット上の民話)は2001年9月11日にアメリカで4機の飛行機が同時に衝突・墜落したのを機に、おもにメーリングリストとメールマガジンを経由して、日本国中に広まった」(世界がもし100人の村だったら 総集編/マガジンハウス)

 「世界が・・・」(池田香代子 再話・文)は、160万部のベストセラーになり、開発教育協会(DEAR)によってワークショップ教材にもなりました。しかし、大ブレークしたこの見事な「100人村の物語」は、9.11が「一昔前」のことになるが如く、徐々に忘れ去られつつあるように思えます。

 「・・・だからあなたは深々と歌ってください。のびやかに踊ってください。心を込めて生きてください。
 たとえあなたが、傷ついていても、傷ついたことなどないかのように愛してください。
 まずあなたが愛してください。あなた自身と、人がこの村に生きてあるということを。
 もしもたくさんのわたし・たちがこの村を愛することを知ったなら、まだ間に合います。人々を引き裂いている非道な力がこの村を救えます。きっと」(世界がもし100人の村だったら/池田香代子 再話・文)

 「夜と霧」新版/みすず書房の訳者でもある池田さんは、最後の「きっと」に想いを込めています。強く。

 もう一つ、同時多発テロ以降世界に配信された詩をご紹介します。これは、9.11の追悼集会でも読み上げられた、わが子を亡くした母親の詩/“Tomorrow Never Comes”の一部です。

 「・・・そしてわたしたちは 忘れないようにしたい。
  若い人にも 年老いた人にも、明日は誰にも約束されていないのだということを。
  愛する人を抱きしめられるのは、今日が最後になるかもしれないことを。

  明日が来るのを待っているなら、今日でもいいはず。
  もし明日が来ないとしたら、あなたは今日を後悔するだろうから。

  微笑みや抱擁やキスをするための、ほんのちょっとの時間をどうして惜しんだのかと。
  忙しさを理由に、その人の最後の願いとなってしまったことを、どうしてしてあげられなかったのかと。

  だから今日、あなたの大切な人たちをしっかりと抱きしめよう。
  そしてその人を愛していること、いつでもいつまでも大切な存在だということを、そっと伝えよう。

  『ごめんね』や『許してね』や『ありがとう』や『気にしないで』を、伝える時を持とう。
  そうすればもし明日が来ないとしても、あなたは今日を後悔しないだろうから。」
  
 『最後だとわかっていたなら』ノーマ コーネット マレック 作・佐川 睦 訳/サンクチュアリ出版)
 
 訳者の佐川睦さんはこのたびの東日本大震災で被災し、福島から首都圏に避難されている方です。
 二つの詩に共通するのは「(もし)・・・たら」、即ち「If (it were) 」の世界です。ですが、そこには「明日への希望」が失われていません。私たちにはその“if”を、“Come True”に変える力があります。「きっと」。