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2011.11.04
JOCS/東日本大震災 釜石への派遣報告(7月~10月) 白石仁美(カウンセラー) ~「釜石ベース」への派遣~ 7月から毎月、月命日(11日)をはさんで4日間、釜石ベースに行かせて頂いている。 7月 市民体育館の避難所訪問。傾聴ボランティアは、蛍光色のベストを着用し、肩もみなどしながらお話しを伺った。 震災後、この「蛍光ベスト」が「カリタス釜石」として、信頼のおけるボランティアとして地域に認知されている。 震災後、10時間後に海上自衛隊が海に出た時には、タンスやテレビなどの家財道具の間に浮かんでいる遺体を収容し、町には瓦礫と避難所と遺体しかなかったところから始められた という。 8月 初めてのお盆。11日に、3000本のろうそくに火を灯し、復興の願いを込めて復興祈願祭が行われた。 300枚の浴衣が配られ、花火が上がり、瓦礫の町が浴衣の人々で賑わい、「こんなに大勢が集まり賑わったのは久しぶりだ。」 と、地元の人が感慨深げに語ってくれた。毎月11日2時46分には、サイレンが鳴り、黙祷をする。 その時間をはさんで、「テゼの祈り」を、シスターとお捧げ出来るのは、ただ感謝だ。 9月 仮設に設けられた集会所で、社会福祉協議会と連帯して「笑うべ」を開催。すべてを流され、地元を離れ、知らない人たちの中で、引きこもったり孤立しないために、交流を持ってもらうことが目的。戸別訪問し、安否確認を兼ね、声をかけお誘いする。阪神大震災の時の、仮設に移ってからの孤独死は、何としても回避したい。 18歳の時からイカ釣り漁師だった、88歳のお爺ちゃん。其の日、津波に呑みこまれ、何度も沈んだり浮いたりしながら、顔を波から出した時、目の前に軽トラックと冷凍車が迫って来て、必死で波をかき分けて逃れた と言う。やっとの思いで何かに捕まり、助かった時には、足は骨折し、血は方々から噴き出していた。今、仮設で独り暮らしで自炊をしておられるが、「自分の食べる位は、自分で作るのは当たり前。」と淡々と仰り、この夏ご自分で栽培したミニトマトを、 逆に私の手に乗せて下さった。 40代の元お米屋さん。消防団員として、地域のためにも働いておられた方。 今は、仮設の外で、1日中腰をかけ、通りがかりの人とおしゃべりをするだけの毎日。「することがないのが辛い。」「1日1時間でもいいから働きたい。それで1日、千円でももらいたい。」と言われる。 今、高齢のお母様の年金で暮らしておられて、みじめで、「自分の存在」が役に立たない辛さや、やりきれなさを語られた。 83歳のおばあちゃん。震災以来、思い出すと涙が止まらず、目はまさに涙目で、眼科に行っても治らない。 それは涙線の病気ではなく、心因性のものだから。そのおばあちゃんが、私たちに「お上がりなさい。」と、仮設に上げて下さり、わずかな御夫婦の夕飯の栗ご飯を御馳走して下さり、沢山のお話しを伺った。 地元の人たちとの交流は、私たちが何かをさせて頂いているのではなく、「よそもの」ではなく、「なかまうち」として大事にして頂いて、私たちの方が心慰められることがしばしばだ。 10月 少しずつお店も復興し、仮設にも食堂が出来、釜石の人達は、東北魂で忍耐強く頑張っておられる。 絶句するような状況を乗り越えようとする「そこ」は、イエス様の十字架が、闇を貫いて神様の光にはいられたように、絶望の極みが、神様の憐れみと祝福の極みに突き抜けているような、「不思議な」感じがする。 日頃は、私の中の「悲しみ」や「痛み」は分厚い壁の向こうに閉じ込めて、何でもないような顔をして生きている。 ・・・が、神様が創られた「人間の真実の姿」に触れる時、その前で、わたしは子どものようになる。 すべてをはぎ取られた人々の中に、私は自分自身を見る気がする。 ボランティアたちは何かさせて頂くために行っているのではなく、そこでの魂の触れ合いに魅かれて、また行っているのかもしれない。 物が無くなり、美しいこころの交流が、あちらにもこちらにも花が咲いている。神様のなさることは、いつも神秘だ。
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