HOME>ニュース>12年度総主事通信 ①

ニュース

12年度総主事通信 ①

2012.05.22

シェア ツイート

今月のコメント

“わが希望の根拠”~JOCS50周年記念誌 「人々のいのちと向き合って」から

 JOCS50周年記念誌が出来上がりました。以下は、その第Ⅲ部の後半に、私が書いた一文です。

 「・・・私たちは時代の風をとらえ、変わらねばならない。しかし、時代を超えて変わらぬ・変えてはならぬこともある、『変わらぬこと』-それはJOCSの基本理念としての『草の根の人々のいのちと向き合って、みんなで生きる』である。JOCSが半世紀存在したという事実は、私たちの活動が必要とされる状況が変わらなかった現実の証でもある。JOCSの究極的な願いは、『JOCSの活動が必要とされない世界』である。その二律相反することのはざまに揺れながら、私たちの葛藤はこれからも続く・・・。」

 50周年記念誌は歴史書ではなく、生きた証です。様々な困難を乗り越えて歩んできた足跡であり、一つのマイルストーン(里程標)です。日本のNGOの草分けとして先駆的な役割を果たした時代は過去のことです。私たちは今、そしてこれからも、「JOCSの存在意義とは何か」を自問自答し続けねばなりません。
 初代事務局長として、JOCSの牽引車となられた佐藤智先生(医師)から「50年、よく続けられた。人の力だけではないね」とのコメントを頂きました。「困難な時こそ、神の力が働いたのだよ」との意味でしょう。

 JOCSの源流は、学生キリスト教運動/学生YMCAです。私は、第Ⅲ部の文末に、学生YMCAの世界的指導者であったジョン・R・モット博士(1946年、ノーベル平和賞受賞)の「わが希望の根拠」という講演(1949)のメッセージを引かせて頂きました。モット博士は語られました。「現代ほど苦しみが多い時代はない。それが第一の希望の根拠である。イエス・キリストにおいて示されているこの苦しみこそが、希望の根拠である。人間の極限は神の機会であり、今日われわれは偉大なキリストをなお、もっている」と。

「消えた子どもたち」(AERA 2012.5.21)~“消されていく”子どもたち

 「学校が居場所を掴めず、1年以上も『行方不明』とされている小中学生がいる。都市部を中心に全国で1,000人強・・・『消えた子どもたち』 に何がおきているのか」(朝日 2012.4.20)
と新聞が報じたのは、4月半ば過ぎでした。そしてその後AERAが特集記事を載せています。
背景には、虐待やDV(家庭内暴力)からの避難、あるいは夜逃げなどがあり、学校や行政が居場所を掴めないケースがあり、「居所不明」の子は全国で「1,191人」(文科省の2011年5月1日調査)に上ります。
 「事件に巻き込まれたのか分からず、本当に命が危うい子どもに光が当たらない」(朝日)「生死すらわからない子もいる。大人の都合と貧困に翻弄され、子どもたちはあまりにも無力だ。」(AERA)

 これは世界の、あるいは途上国のどこかのお話ではありません。今日も地球のどこかで、日常的に搾取され、売買され、「消されている」子どもたち。兵士として戦場に駆り出され危機に晒される子どもたち。しかし、子どもの平和を脅かす暴力や不適切な関わりは、私たちの身近な所にもあり隠されています。
 「子どもたちの戦争」(マリア・オーセイミ著、講談社、1997)で、著者(レバノン人)は、戦争で最も疲弊した4つの国、レバノン、ボスニアヘルツェゴビナ、モザンビーク、エルサルバドルでの子どもの殺戮と共に、もっと衝撃的な、ワシントンDCをはじめ米国の路上での「宣戦布告なしの戦争」を告発していました。

 さて、先日、「1000年後、子どもゼロに?」と題して、日経が「千年後、5月5日の子どもの日は来ないのか―。東北大は10日、100秒に1人の速さで子どもが減少していく日本の少子化の状況がリアルタイムで分かる『子ども人口時計』を発表した。インターネット上で公表している。・・・3011年5月には日本の子どもの数は1人になり、翌年までに子どもはゼロになる。・・・」と報じていました(日経 2012.5.11)。
 「1000年先」といっても、例えば、「100歳の日野原重明先生が10人繋がった先」と考えればどうでしょう?「子どもがゼロ」になる世界は、「暗闇」の世界です。子どもが消されていく状況を加速化させるように、私たち大人は自らの欲望と愚かな争いで、「未来と希望と可能性」を消し続けています。
 問題は「今」です。私たちは「今日を生きる」子どもたちの問題に深い関心を寄せていきたいと思います。

「地球がもし100㎝の球だったら」(永井智哉/世界文化社)~みんなで生きるために

 5月21日は、金環日食でした。英語では“Ring of Fire(炎の輪)”。雲の隙間から、微かに「光のリング」が見えました。空を見上げたのはいつ以来でしょう?足先や身の回りのことにばかりに目が捉われて。いつも自分の×や△の連続の日々ですが、天空から「そのままで、○だよ」と励まされたように思えました。
 さて、天空と言えば、友人からの年賀状で紹介された、ある絵本を思い出しました。題名は「地球が・・・」。「世界がもし100人の村だったら」に似ていますが、この絵本のテーマは、「世界」ではなく「地球」です。総会の今年度計画で、「宇宙船地球号」(懐かしい響き)をキーワードの一つに挙げたので思い出しました。

 「地球がもし直径1メートルの球だったら・・・私たちの地球への見方が少し変わるかも知れません。飛行機の高度は実際の地球では1万メートル、1メートルの地球では地表から0.8ミリとなります。私たちは厚さ1ミリ程の大気の中で生活しています。海の深さは平均0.3ミリ、一番深いところが0.9ミリ、地球にある全ての水を集めてもビール大瓶1本分ぐらい。飲み水に仕える水は小さなスプーン1杯分しかありません。・・・」(友人の山田和生さんの年賀状より)。地球は、生きています。ぼろぼろに傷つきながら、、、。

 光のリングは私たちを見つめていました。そこに神様のまなざしがありました。「小さな小さな惑星の乗組員同士。なんとちっぽけな争いに明け暮れているのだ。武器と欲望の炎ばかりが見えるよ」と。「奪い合うのではなく、分かち合うこと」「憎しみではなく、赦すこと」そして「地球を痛め、命を傷つけるな」と。「フクシマを見つめよ。生き方を変えよ」と。私たちは、宇宙船地球号に乗り合わせた運命共同体なのです。