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12年度総主事通信 ⑧<No.68>

2012.12.22

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今月のコメント

●「見えない恐怖」と葛藤~「福島県の児童養護施設の子どもの健康を考える会」

 JOCSは、福島の児童養護施設の子ども達を、内部被ばく・外部被ばくから守るための活動を続ける現地NPOをサポートする形で、放射能という「見えない恐怖」に晒されている子ども達や施設職員の方々の問題と向き合っています。児童養護施設の子ども達は被虐待、親の病気(精神疾患)などの様々な理由の故に親や保護者と共に暮らすことができず、避難もできない状況にあります。私達の身近にいる「最も小さくされた子ども達」は、十分に顧みられず、支援の手が届いていません。現地の声を紹介します。

 「・・・福島の支援について、『原発が納棺される時が一つの活動の終わり』というチェルノブイリと違い、福島は『燃料棒を取り出す』が終決目標です。従って『すべての燃料棒が取り出せた時』が一つの区切りと言えますが、一方で現在施設に入所している子どもが平均寿命を全うできた時が終わる時なのかもしれません。しかしながら、今まさに入所してくる子どももいますし、今後仮設住宅に入居している中での虐待が生じて児童養護施設への入所も増えると思いますので、どの時期の入所者まで対象とするのかも迷うところです。・・・『福岡久留米に母子避難していた母親が虐待で逮捕された』と、聞きました。こうしたことがこれからもずっと続くことが予測されます。
 ・・・海外での支援の場合は、『区切りをつけて、終了』が言えると思いますが、日本で起きたことには、現象がある状態になるまでは支援を続けねばならず、当事者として逃げられないとも言えます。『見えないふり』はできても、現象は存在します。
 ・・・震災後1年9か月以上が経過して、施設の職員も疲労が重なっています。どのように支援していくかを深く考えさせられています。福島で起きていることを忘れない、起きていることを誤解が起きないように伝えていき、多くの方に当事者意識を持って解決を考えて頂ければと思っています。・・・」
 (NPO法人「福島県の児童養護施設の子どもの健康を考える会」の報告より抜粋)

 今、虐待や家庭内暴力の問題が徐々に顕在化しています。子どもの言動の荒れ、彼らの食と生活を支える職員の疲弊の問題も深刻です。施設移転も困難です。事実や実態が明らかにされず・知らされず、「一部の問題」として囲い込まれています。まだ復興以前、即ち緊急援助の段階を脱していないのです。
 支援や協力には「いつまで、何を、どのように、支援すべきか」という難題が伴います。一方、その都度の緊急・優先課題への対処も必要。支援者は、そのはざまで揺れ続けます。支援者は、孤立を余儀なくされる時もあるでしょう。支援者の葛藤、それはJOCSへの問いかけでもあります。

●「足跡/“Foot Print”」 救済と宗教を巡って~被災地の現場で 

 JOCSは、キリスト教を基盤とする団体です。しかし仏教が根付く地縁血縁社会である被災地・釜石では、宗教の違いを超えて、僧侶の方々とも共に活動をしました。宗教は異なっても、命を見つめるまなざしは同じです。被災者の中には、「当初はキリスト教に対する違和感があった」という方もおられました。しかし今は、「キリスト教の人たちが最も長く居続けてくれている」と仰って下さり、こちらが励まされています。
 一方で「キリストが俺たちを助けたのではない。助けたのは自衛隊だ」とキリスト教に拒否反応を示す方もおられます。ある牧師は、被災者を訪問時に、「塩をまかれた」そうです。3.11以降の支援に際し、多くの宗教団体が救済に力を尽くしつつも、様々な壁に直面し、ジレンマや葛藤を抱えています。私達はまだ、そのことへの答えは見い出せていません。ただ人とその命を見つめるのみです。災害時のみならず、日常でも混迷の度合いを深める現代社会にあって、宗教の在り様が問われていることを実感しています。

 「人々の苦難に寄り添う」-しかし、それは本当に難しいことです。痛みも伴います。寄り添いには「聴く力」が欠かせません。そして「祈る力」も必要です。ゴールは見えない。けれど、私達は、「喪の途上」にある被災者と共に、希望の回復に向けて歩みたいと思います。人には負いきれぬほどの重荷と孤独を、最も辛く悲しい時に、丸ごと背負ってくれる神様の存在を知っています。私達は、そのことによって救われています。あの「足跡/“Foot Print”」の詩の如く。
悲嘆の記憶は消せません。しかしいつかその記憶を乗り越える日が来る、きっと。共に歩む中で。
 
●イエス・キリストの誕生物語~「愛するという選択」(ブラザー・ロジェ)

 ナザレからベツレヘムまでの山岳地帯の上り道。一説によるとその距離100数十キロ、しかも凍てつくほどの厳しい冬。ヨセフと身重のマリアは、母子ともに危険な旅路の末にベツレヘムへ辿り着く。しかし泊る宿屋もなく、幼子イエスは馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされた。これはクリスマスの一コマです。
 「ヨセフとマリア夫妻が泊まろうとしたのは宿屋ではなく、親戚の家。血縁のある親戚にすら受け入れてもらえなかった」との説があります。また「当時の飼い葉桶は、石を掘ってできたもので赤ちゃんを入れるのに丁度よいサイズで、イエスはそこに寝かされたのだ」とも。拒否と寒さは、骨身に染みたでしょう。
 過酷な長旅の道中でもひどく傷つくこともあったでしょう。やっと与えられた居場所は暗く凍え、家畜の臭いのする馬小屋。そして飼い葉桶。質素極まりない誕生の物語です。もし2012年前の羊飼いが、タイムスリップして、現代の豪華に彩られたクリスマスを見た時、どう感じ、何を見るでしょう?
救い主は、「いと高き」ではなく、「いと低き」処で生まれた。私達はそのことに想像力を働かせ、意味を見出します。「シンプルに生きよ」、「低みに立つ人であれ」。世界各地の、居場所すらない人々、幼子、そして蔑まれ、貧しく小さくされた人々の中に、「イエス・キリスト」が生きておられる、それが恵みである、と。

 救い主の誕生物語は時空を超えて、今も生き続けています。物語のもう一つのメッセージは、「分かち合い」を、だと思います。奪い合いから「戦争」が生まれ、分かち合いから「平和」が生まれます。
分かち合いは、「愛するという選択」(ブラザー・ロジェ)。クリスマスは、愛によって真の輝きを発します。