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2013年度総主事通信⑩/No.82

2014.03.20

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今月のコメント

  • 避難民26万人~“古里”に、復活(イースター)の恵みを

 3月9-10日は仙台、11-12日は釜石を訪れ、3.11の追悼ミサとキャンドルナイトは釜石で参加しました。

 初回訪問時、惨状に言葉を失った仙台の荒浜地区。今回、見渡す限りの空き地に点在する家屋、盛り土工事の現場、廃墟と化した小学校、横倒れの墓石と真新しい墓石が入り混じる奇異な風景が広がっていました。

 3月11日の朝、釜石駅で協力団体であるカリタス釜石に向かうため待っていたタクシーはなかなか来ませんでした。ようやく乗ったタクシーの運転手さんの「今日は、各地からの取材や訪問者のため、出払っていてお待たせしました。でも、今日限りで忘れ去られるでしょう・・・」との嘆息交じりの呟きが耳に残っています。

 初めて訪れた釜石の異様な姿が目に焼き付いています。今回、瓦礫と異臭は消え、廃墟であった工場跡地に建った大手ショッピングモール(3月12日に開店)や空き地とプレハブ店舗が混在する不思議な風景がありました。釜石での吹雪と凍てつく寒さが身に沁みました。あの日、暗闇の中で濡れた服と体で寒さと恐怖に震えて一夜を明かした人たちのことが想起されました。釜石医師会にも訪れました。同市の遺体安置所の実録「遺体 震災、津波の果てに」(石井光太著/新潮社)と映画「遺体 明日への十日間」のモデルにもなった同医師会の小泉嘉明会長とも久しぶりにお話をしました。凄絶な現場の記憶が呼び起こされました。

 さて、カリタス釜石の伊瀬聖子さん(副理事長)の、現場からの声(「福音宣教」2014年2月号より)です。

 「・・・『3.11を忘れない』は、その主語に誰を当てはめてもいい名言だと思います。あの日から3年目を迎えようとしている今、私はあえて主語を『私』にしたいと思います。この『私』とは、被災地で生まれ、今ここに生きている『私』です。故郷の原風景を失くし、たくさんの知人を亡くし、今、復興支援に携わっている『私』です。/この『私』は震災直後から『あんたなんかにはわかんねえ』と言われてここまで来ました。家族の誰かが死んで、家が流されていたら、それが被災者。『私』は家族も失っていないし、家もなくなっていないのです。でも、これから先を考えると、絶対に地元同士で支え合わなければならない。一緒に生きて、被災者、非被災者の断絶を越えていかねばならないんだと、『私』は信じて、ここにいるのです。/・・・日本全国、全世界からの支援や応援がどれほど大きなものであったかを『私』は目撃してきました。そこには可視化できない心の支えや祈りの力も加わります。」(「福音宣教~特集:希望への物語」2014年2月号/オリエンス宗教研究所)

 地元新聞が記す“古里”という言葉が沁みます。慈しんできた郷土への人々の祈りにも似た想い。「忘却」という受難とも闘う時を生きる被災地に、春の温かさとイースター(復活節4/20)の恵みがありますように。

 

  • ナイチンゲール~ 「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」

 ロシアのクリミア(ウクライナ南部)併合がまた、戦火を呼ぶのでしょうか?「近代看護教育の母」と称されるフローレンス・ナイチンゲールは、クリミア戦争当時の2年間、傷病兵たちへの献身的な看護に従事し、「私は地獄を見た。私は決してクリミアを忘れない」と語っています。記録によるとスクタリの野戦病院で一日1,200人もの兵士たちに8時間も膝をついて包帯を巻き続けたり、衛生環境の改善に努め、夜には何千人という患者たちの見回りを行った、とされています。“白衣の天使”と呼ばれることを善しとせず、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」と語りました。

 多才なナイチンゲールは、社会起業家・統計学者・病院建築でも知られ、看護及び看護教育の実績と共に、統計に基づく医療衛生改革で名声を得ました。上流階級に生まれたナイチンゲール、当時社会的認知が低かった看護の道を歩んだ契機は、1837年2月7日、「私の元で奉仕をしなさい」との神からの声とされます。

 ナイチンゲールの名言(約50年の闘病生活の中で膨大な著作や書簡を出しました)を少しご紹介します。

 「看護は一つの芸術である/命を奪われた男たちの前に立って思う。生きている限り、彼らを死に追いやった相手と戦い続けると/人生でもっとも輝かしい時は、いわゆる栄光の時でなく、落胆や絶望の中で人生への挑戦と未来への完遂の展望が湧き上がるのを感じた時だ」 etc・・・

 看護職はじめ広く保健医療従事者に大きな影響を与えたナイチンゲール。その生涯は信仰の上に築かれ、献身的な働きは“苦悩する者のための戦い”であり、眼差しの先には“いのちと平和”がありました。

 

  •  ノーマ・フィールド(シカゴ大名誉教授)とピート・シーガー~戦争を巡って、“ぐるぐる回る”世界

 日本は“戦後”を否定し“戦争ができる国”へ?戦後47年、日本生まれのノーマ・フィールド教授の言葉です。

 「・・・知人によると、日本のある小学校の講演で『平和』という言葉を使わないように言われたそうです。プロレタリア文学を研究していると戦前の伏せ文字を扱いますが、戦前、戦中に平和は『××』とされたことが多かった、いまや、戦後と地続きではなくなったというか、敗戦直後に日本人が真剣に議論したことがゼロになりつつあるように思います。・・・戦争になって最初に犠牲になるのは、若くて生活に困っている層だということは米国の歴史が証明しています。・・・最初に戦場に出る若者が右傾化を支持する(日本の現状)。それは近代史の忌まわしいパターンのひとつだと思います。・・・今の若者は『戦争を知らない子どもたち』ではなく『戦後を知らない子どもたち』ですね・・・「私は『希望派』ではないんです。自分が実感できない希望を、自分が信じていないものを、人に伝えることはできません。一方で、希望と聞くと、先日亡くなったフォーク歌手のピート・シーガーを連想します。シーガーは、決して諦めない人でした。どんな場で音楽を奏でても、聴衆との関係を作り上げ、全員を参加させる。体を使って模索する行為自体が希望だという気がします。・・・」(朝日 2014.3.1)

 「娘が花を摘んで若者に捧げる。若者は兵士になり、やがて墓に帰ってくる。墓にはまた花が咲き、花を娘が摘む・・・。ベトナム戦争の頃、どこでも歌われたフォークソング『花はどこへ行った』はぐるぐる回るばかりの世界を描いた反戦歌の名作として知られる。曲を作った米国のピート・シーガーが1月末、94歳で死んだ。・・・彼はショーロホフの小説『静かなドン』に引用されたウクライナ民謡に曲の想を得たという」(日経2014.2.23)

 反戦歌の元歌を生み出したウクライナの今に、「戦争を巡って、“ぐるぐる回る”世界」を見ます。でも、“希望”という名の“奇跡が奇跡ではなくなる日”が来ます。いつかきっと。春が来、イースターが訪れるように。必ず。