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2014年度事務局長通信⑨/No. 105

2015.02.04

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今月のコメント

 

  • パキスタン派遣 青木盛ワーカー(小児科医)~“救った命に、救われる”

 

 

 青木ワーカーは6年間の任務を終え、1月末に退職しました。青木さんの帰国報告を兼ねた仙台の名取教会での礼拝に同行しました。名取教会は、仙台空港近くの被災地にある教会です。青木さんは活動を振り返りながら、静かに「何も成し得なかった6年間だった」、「祈っても祈っても救われない命があった」と語りました。幼い命と向き合い、真摯に働いた一医師の言葉が、深く心に響きました。

 青木さんは聖ラファエル病院で唯一の常勤小児科医・クリスチャンドクターでした。新生児室にある一つの人工呼吸器、裸電球と木箱の手作りの保育器、日本とパキスタンの医療環境の大きな違いへの戸惑い、それは自分との孤独な闘いであったに違いありません。一方、「生後、諦めかけた赤ちゃんが元気になり、大きくなって親と共に訪ねてくれて、とても嬉しかった」とも。“救った命に、救われた”のでした。

 退職後、青木さんは、和歌山の修道会「イエスの小さい兄弟会」の志願者として歩み始めました。プロテスタントのクリスチャンでしたが、聖ラファエル病院のシスターたちとの朝夕の祈りに恵まれ、1期目の任期を終えた後、カトリック信徒へと導かれました。“最も小さくされた人々と共に生きる”使徒としての青木さんのこれからの人生の旅路が、祝福と良い導きと健康によって守られるよう、皆様、お祈りください。

 

  • 犀川一夫医師(元ワーカー)と神谷美恵子医師~「世界ハンセン病の日」(1月29日)

 

 1月末、ハンセン病患者の差別撤廃を訴える会議(第10回)が日本で初めて開催され、10ヵ国以上の元ハンセン病患者の方々が参加し、「グローバル・アピール2015」が発表されました。

 JOCSとハンセン病との関わりは長く、歴史は先駆者である故・犀川一夫医師(1962年~71年:台湾等でのハンセン病診療)に始まり、宮崎伸子看護師(1981年~95年:ネパール)、中村哲医師(1984年~90年:パキスタン)、畑野研太郎医師(1985年~94年:バングラデシュ/現理事)へと続きます。

 犀川先生の人生は、岡山の長島愛生園に始まり、中国の戦地での軍医を経て、後の東南アジアでの働きを含め最後の沖縄愛楽園(~87年)まで、40年余りハンセン病治療と疫学調査に捧げられました。日本で初めて治療薬「プロミン」を使用した医師でもあります。その「プロミン」の合成に日本で初めて成功したのはJOCS初代会長の石館守三氏(東大初代薬学部長)でした。

 「私はハンセン病に関わって40余年の間、この世では最も悲しみと苦しみ、痛みに満ちた人たちが、与えられた己の生命を真摯に生きているこの姿にどんなに励まされ、教えられてきたことであろうか。そして、これは東南アジアのどこの国でも、また沖縄でも変わりはなかった」(犀川一夫著「門は開かれて」:みすず書房)。“門”とは、私たちの“心”です。私たちの心は、開かれているでしょうか?

 

 精神科医の神谷美恵子先生は、犀川先生の後に長島愛生園(1957年~)に赴かれました。

 「何故私たちでなくてあなたが?/あなたは代って下さったのだ。/代って人としてあらゆるものを奪われ/地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ/許して下さい、ライ者よ。/浅く、かろく、生の海の面に浮かび漂うて/そこはかとなく神だの霊魂だのと/きこえよき言葉あやつる私たちを/かく心に叫びて首たるれば/あなたはただ黙っている。そして傷ましくも歪められたる顔に/かすかなる微笑みさえ浮かべている。」(神谷美恵子著「うつわの歌」/「ライ者に」:みすず書房 より)

 お二人のキリスト者医師の原点に、苦難を強いられた人々の痛みへの共感と慈しみがあります。

 

  • 「忘却に抗え」、「傍観者になるな」~命ある者として

 

 

 阪神大震災から20年。その体験者として語り尽くせぬほどの想いがあり、その記憶の一つひとつを心に刻んで生きてきました。トルコ(1999)やエルサルバドル(2001)の大地震で共に活動したメキシコ人のNGO仲間(1985年のメキシコ大地震を機に災害支援に従事)の「忘却は、最大の敵。忘却はいつの日か恐怖に変わる」との言葉を覚えています。今も想います。1995年1月17日、5:46am。あの日あの時、あの大地震発生を知っていたら、「私は何をしていただろう?」、そして「私は何故、生き残ったのだろう?」と。

 

 阪神大震災は、「戦後50年」の年でした。今年は「戦後70年」、遥か遠くの出来事のようにも思えます。

 アウシュビッツ強制収容所の解放70年式典での、元収容者 ロマン・ケントさん(85)の言葉です。

 「『今も恐怖は私の心にある。ホロコーストも、現代の虐殺やテロ事件も伝えなくてはならない。偏見と憎しみが広がったときに何が起きたかを、次世代に伝えなくてはならない』と涙ながらに語り、『傍観者になるな』と訴えた。」(朝日新聞 2015.1.28)

 1月31日に死去したワイツゼッカー元ドイツ大統領は、有名な演説「荒れ野の40年」で、「過去に眼を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」と語りました。過去を否定し、美化する「未来志向」の人たちは、そこから何を学ぶのでしょうか?同じ過ちを繰り返さぬように、と切に願います。そして“忘れない”、“傍観者にならない”私でありたいと思います。今、目の前にある、あるいは身近な出来事にも。

 

 後藤健二さんの悲劇もやがて忘れられるのでしょうか??キリスト者の後藤さん(教会の繋がりで知っている方です)は、受洗時に送られた小型の聖書を常に携帯されていたそうです。その裏表紙には、詩編の言葉が書かれていたと伺いました。「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる」(詩編54編6節)。その前節は「異邦の者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者がわたしの命をねらっています/彼らは自分の前に神を置こうとしないのです」(同54編5節)。何と、“予言的”な言葉でしょう。

 

 「Je suis Charlie(私はシャルリ)」、「I am Kenji(私は健二)」・・・、共感の標として「私」が使われています。仏語「Je suis・・・」が“Jesus(イエス)”に重なり、イエスの悲嘆の声にも聞こえます。主は、憐れみの涙を流されています。“忘却に抗え”、“傍観者になるな”との私の中の“内なる声”に従いたい。命ある者として。