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HOME>活動内容>ワーカー派遣>梅山猛医師・岩村昇医師のご紹介
1961年、梅山猛ワーカーはJOCSの一番最初のワーカーとして、インドネシアに派遣され、活動を行いました。アジアの途上国で医療協力を長期にわたって行うことは、戦後日本で初めてのことでした。当時、日本からインドネシアまでは船で2週間以上かかりました。日本との連絡も手紙が主で、届かないこともしばしばありました。電話での連絡も交換手を通じて行う時代でした。 梅山ワーカーは、ジャワ島のバンドンにあるインマヌエル病院で診療を行いました。加えて、バンドンから車で山道を1時間程走ったところにあるスメダン県のシリアシー診療所でも出張診療を行いました。スメダン県は当時約40万人の人が暮らしていましたが、シリアシー診療所1つしかなく、診療所には医師が長期間不在でした。梅山ワーカーは診療に加えて、シリアシー診療所の整備に取り組み、地域の人たちが自分たちの力で診療所を運営していけるよう、支援を行いました。
梅山ワーカーのものがたり インドネシア到着当初、多くのイスラム教の人たちは日本人が来たことを歓迎してくれましたが、インドネシアの教会の人は諸手をあげて梅山ワーカーを受け入れてくれたわけではありませんでした。 梅山ワーカーはインマヌエル病院での診療に加え、週に2回、シリアシー診療所での診療も行いました。朝5時に起きて医薬品を積んで家を出て、西ジャワでも最も交通事故の多い、曲がりくねった険しい山道を1時間ほど運転してシリアシー診療所に向かいました。診療所に着くころには、診療開始前にも関わらず、200名近くの患者さんたちが既に梅山ワーカーの到着を待っていました。スメダン県全土から患者がこの診療所に来ていたのです。1人の患者に2、3人の家族が付き添うため大変な人の数になり、診察の順番がくるまでいつも2~3時間ほどかかりました。診療所の周りには食べ物を売る屋台や子どものおもちゃを売るお店が出て、縁日のようなにぎわいになりました。梅山ワーカーは、シリアシー診療所での診察を終えると、インマヌエル病院に戻り、その後100人を超える受け持ちの入院患者の診察を続けました。 このような働きにより、梅山ワーカーの働きに対する地域の人たちからの信頼は高まりました。梅山ワーカーが帰国の時、教会の牧師が「ドクターウメともっと早く出会えていたら、日本人に対する私たちの考え方もずいぶん異なっていたと思います。ありがとう。」と言ってくれました。出発の日、宿舎から病院の門までの100mほどの距離を病院のスタッフや住民たちが列をなして、みんな梅山ワーカーを握手で見送ってくれました。
1962年、岩村昇ワーカーはネパールに派遣され、United Mission to Nepal(ネパール合同ミッション。ネパールで活動するキリスト教系国際NGO)傘下のタンセン病院に赴任しました。 岩村ワーカーは、公衆衛生の専門家で、18年間結核やハンセン病、マラリアや赤痢などの治療や予防に取り組みました。患者たちは貧しく、遠くから何日も歩いてくるか、家族に背負われてくる人たちが多くいました。中には既に手遅れの状態の人も多くいました。特に病院に来る結核患者のほとんどが重症でしたが、当時ネパールにいた80人の医師の中に結核を扱える医師はいませんでした。そこで岩村ワーカーは、自ら歩いて山を越えて遠くの村に行き、診察や結核健診を行う巡回診療に力を入れました。
岩村ワーカーとJOCS会報『みんなで生きる』のものがたり 岩村ワーカーが巡回診療を行った時、ある村で重症のおばあさんを診察しました。おばあさんは入院の必要がありましたが、背負って運べる人がおらず困っていると、村に荷物を届けに来た青年がその役を引き受けてくれました。青年は荷物を運ぶのが仕事でした。青年は3日間おばあさんを背負って険しい山道を歩き、病院まで連れてきてくれました。病院に到着した時、岩村ワーカーは感謝の気持ちを込めてその青年にお礼を支払おうとしましたが、青年は受け取りませんでした。 青年は「みんなで生きるためですよ(サンガイ・ジウナコ・ラギ)。私はお金のためにおばあさんを運んだのではありません。私は若くて体力がありますが、おばあさんは病気で体力がありません。だから3日分だけ私の体力をおばあさんにおすそわけしたんです。」と答え、立ち去りました。 この『みんなで生きる』は岩村ワーカーだけでなくJOCSの活動にとっても大切な言葉となり、JOCSの会報*のタイトルになりました。 *JOCSの会報のバックナンバーをご覧になりたい方は、こちらをご覧ください。
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